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ドイツだより

vol.12: ラクダに乗って

旅をしていました。ラクダに揺られて。
小さなラクダです。どんなに小さいかというと、自転車よりも小さいのです。
背にまたがった私の足が、すれすれで地面に届く程度です。レンタカーみたいに、旅行代理店で調達しました。
「こう見えても力持ち。お客さん程度の体重なんて全然へっちゃら。長旅だって大丈夫。だから安心して行ってらっしゃい、気をつけて。」
そう送り出されて始めた旅でしたが、私は半信半疑でした。
苦しそうに足をひきずって、ゆっくりゆっくり前進して行く様子を上から見ていると、なおさら不安になり、私は一旦鞍(くら)から降りて、問いました。
「本当に大丈夫?」
「もうたくさんだ。一歩も先へ行きたくない。」
正面を向いたまま、ラクダは無愛想に答えました。

 


私は慌てて、ラクダの休める場所を探しました。
とりあえず見つかったのは、楕円形をした競技場らしき建物の中の階段状になった座席です。ラクダはすぐに眠り始め、私はその横に座って、寝ずの一夜を過ごしました。
朝になっても、ラクダは一向に目を覚ます気配がありません。さりとて、いつまでもそこに留まるわけにはいかないので、そろそろ起こしてやらねばなりません。ここから先は手綱を引いて、いっしょに歩いて旅を続ける覚悟です。
だけど、どんなに呼んでも揺すっても、ラクダは知らん顔。それでも揺り起こそうとしていると、突然カッと目を見開き、寝た姿勢のまま首だけ振りかざして、私に襲いかかってきました。すんでのところで手を噛まれそうになった時、私は夢から覚めました。

 


『人の生きるための様々な行いを、地球がもう支えきれなくなろうとして久しい…。』
ある晩、行き付けの飲み屋の主人や常連客が1つのテーブルを囲んで、そんな話をしていました。話題の発端は言わずもがな、衆目の見守る原発事故です。
この折に私は、つい2~3日前に見たばかりの、この夢のことを話しました。
「ラクダをこんなに苦しめながら、私もここまで生きてきた。
手を噛まれそうになったのは、自分に何もできない焦燥と、ますます何もできなくなって、ただ手をこまねいていなければならなくなることへの不安だと思う。」と付け加えました。

 


「…ったく、何にも分かっちゃあいないな!」
横合いから喝を入れてきたのは飲み屋のあるじです。「その小さなラクダは、ミエコの日本人らしい《謙譲の美徳》への、余りにも強すぎるこだわりだ。
そもそも、とっくの昔に大きなラクダに乗り換えて、もっと図々しく生きていて然るべきなんだ。大体いい年をして、人の経験も知識も嵩(かさ)を増していく一方なのに、
いつまでたってもそんなちっちゃなロバじゃあ、全部運びきれないのはあたりまえだろう?ロバが怒るのも当然だ!」
(オヤジさんはギリシャの人なので、いつのまにか、私の夢のラクダが自分の好きなロバとすり代わっています。)
実のところ私は、オヤジさんの言うような《遠慮の固まり人間》などでは、ちっともありません。なんて勝手な解釈かと唖然とする一方、オヤジさんへの感謝が胸いっぱいに広がりました。
だって彼は、日本に故郷を持つ私を、この際なにがなんでも勇気付けてやろうと、こんな都合のいい解釈を自信満々に語ってくれたのですから。

 


あれから数週間。オヤジさんの言葉を反芻(はんすう)してみることがあります。
そして、「よしっ、思い切って本当に乗り捨てちゃえ!」と、自分に言い聞かせます、「私ひとりさえ持て余す程の、ちっぽけなラクダなんて。」大きなラクダで旅すれば、視界が広がるはず。
ラクダにばかり気をとられずにすめば、なおさら色々なものが目に映るはずです。足が痛くて歩けない人や荷物が重くて進めない人と鞍(くら)を分け合い、しばしの旅路を共にすることになるかもしれません。

 

『旅の《乗り物》を取り替えるのではなく、旅する自分の心の在り方や視点を見直してみよう…。』

こんな風に、このごろ思い始めたのです。
ありがとう、ラクダ。
ありがとう、オヤジさん。

 

vol.12『ラクダに乗って』終わり