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ドイツだより

vol.13: 故郷の言葉

私がフランクフルトに越してきたのは1989年の秋。それ以来ずっと同じアパート住まいです。
初めは一人暮らし、結婚して二人になり、そのうちネコを飼い始めて人口密度(?)は一旦上がりましたが、「夫婦ではなく、生涯、離れたところから見守りあうパートナーの方がふさわしい。」と、ある時別居し、ネコと私がこの家に残りました。4階建ての棟に10件の住まいがありますが、たなこの大半は若い単身者かカップル。

2~3年も住むと、転職したり別の住まいを見つけたりして引っ越していくのが常です。

 

そんな中で、私が入居する10年以上も前から、ずっとここにお住まいのイタリア人ご夫婦が一組。気さくで明るくユーモアたっぷりのアニータさんと、いつもしかめっ面、「こんにちは。」と声をかけてもにらむような目でいちべつ、せいぜいこだまのように同じ挨拶を返してくるだけのピエトロさんです。

 


ある時、アパートのゴミ捨て場で若いインド人女性を怒鳴りつけている彼を見たことがあります。

彼女がゴミ袋を所定のコンテナにいれず、横っちょに置いて去ろうとするのを叱っているところでした。

「妊娠中で、思うようにコンテナの蓋に手が届かないから。」と言い訳する女性に、彼は「とんでもない。いったいこの町に何人の妊婦がいると思ってるんだ。

そんなことでゴミ一つ満足に捨てられないわけがないだろう!」と。『そんなにガミガミ叱っていないで、手を貸してあげればいいのに…。』と思わないでもない私は、それ以来、なおさらピエトロさんが恐くなりました。

 


このピエトロさんは、フランスとイタリア産のワイン販売がお仕事で、以前はしょっちゅう何日も家を奥さんに預けて外出することがありました。

お喋り好きなのに一人でいる時間が多いアニータさんは、階段などでばったり出くわすと「シニョーラ、ちょっと寄ってかない?」と声をかけてくれるものでした。いつもつけっぱなしのテレビがイタリアのサテライト放送を流す居間で、多分フランクフルトで一番おいしいエスプレッソをご馳走になり、ちょっぴりお喋りして、

 

「ごちそうさま。じゃ、また。」とおいとまするまでのひとときを私も大好きです。ここに長くお住まいの彼女からは、「以前は建物の東側の壁に、裏庭に通じる階段があった。」「ある住まいでゴキブリが発生して駆除の会社がきたことがある。」「アパートを一つ借りて女の子を何人も住まわせ、つまり売春婦の《寮》にしていた男がいた。」など、この家の過去を少し知ることもできました。

 


ところが数年前に、あの恐いピエトロさんが退職してしまい、今ではほとんどいつもお家にいらっしゃいます。それで私は脚が遠のいてしまいました。それを察してアニータさんは、「旦那、入院中。」とか「旅行中。」とウィンクして誘ってくださいます。「ピエリ(ご主人の愛称)はねぇ…、決して悪い人じゃないんだけど、無愛想でゴメンね。」なんて言って。 アニータさんと私、こちらは一人暮らし、あちらはそろそろ高齢なので、お互い少し気にし合って暮らしています。彼女からは「しばらく見かけないからちょっと気になって。」

 

と携帯に電話をもらうことも度々。こちらはこちらで、何日も続けて、ご主人が一人でショッピングカーを引いて買い物に出かける姿を見ると、「もしかして、奥さん風邪でも引いてない?」と呼び鈴を押すこともあります。

 


ある日、中央駅から乗った路面電車の車内でこんなことがありました。電車が走り出して間もなく、標準イタリア語とは全然違うけれど、かろうじてイタリア語の単語混じりの会話が私の耳に入ってきました。
外国語への好奇心の強い私は、思わず声のする方へ視線をやりました。すると、近くの座席にピエトロさんが座っていて、通路を挟んで隣の男性と話しています。
そういえば、奥さんは北部のベネトー州の出身だけど、ご主人はナポリの方と聞いたことがあります。

 

『向こうも気づいてないなら知らんぷりしよう。』と、視線を戻そうとしたとき、なんとピエトロさんが、これまでに一度も見せたことのない笑顔で、しかも向こうから私に「グーテンターク」と声をかけてくれたのです。

 


予期せぬことに驚いて私の返した会釈は、きっとぎこちないものだったに違いありません。それからしばらく、私は二人の様子を見るともなく見てしまいました。恐らく同郷の知人同士なのでしょう。話に興じるピエトロさんの表情もジェスチャーも活き活きと明るく、私がこれまでに見てきた彼とはまるで別人のようです。だけど本当は、故郷の言葉で話しているこのときのピエトロさんこそが彼の素顔のはず。つまり私は、かれこれ20年以上も、彼を見損なってきたわけです。

 

『たまたまこの電車に乗り合わせたのは、くじ引きにでも当たったみたい。』と、私はすごく得をした気分になりました。
降りしな、「さよなら、奥さんによろしく。」と、私は思い切って声をかけてみました。もしかするともう一度、ピエトロさんの笑顔が見れるかもしれない…と期待して。その結果は、みなさんのご想像におまかせします。

 

vol.13『故郷の言葉』終わり